東京高等裁判所 昭和38年(行ナ)21号 判決
(争いのない事実)
一 本件に関する特許庁における手続の経緯、本願発明の要旨及び本件審決理由の要点が原告主張のとおりであることは、当事者間に争いのないところである。
(本件審決を取り消すべき事由の有無について)
二 本願発明においてB液として使用されるネオラン染料又はパラチンフアースト染料が、第二引用例の第一液に用いられる酸性媒染染料に属するか否かについて判断するに、成立に争いのない甲第二十二号証の一から三(化学大辞典2、六一八頁)には、その「含金属染料」なる項に、「元来は金属錯塩染料を意味するが、特に金属としておもにクロムを含むO・Oダッシュージオキシアゾ染料に属する酸性染料をいう。」との記載、また、成立に争いのない甲第二十三号証の一から三(化学大辞典3、九六九頁)には、その「酸性媒染染料」の項に、「大部分のものはアゾ染料に属し、サリチル酸残基を含むか、またはアゾ基のO・Oダッシュー位置に水酸基を含むものが多い。」との記載がそれぞれあり、さらに、成立に争いのない甲第一号証(本願発明の明細書)中「特許請求の範囲」の項には、そのB液として、ネオラン染料又はパラチンフアースト染料とは別個に、酸性媒染料をもつて混合溶液とする旨記載されており、これらの記載よりすれば、本願発明のネオラン染料又はパラチンフアースト染料は、その化学構造上、含金属染料であり、クロム金属と錯塩を形成した染料であるに対し、成立に争いのない甲第十号証(第二引用例)によると、第二引用例の第一液の酸性媒染染料は金属と錯塩を形成していない染料であること(第二引用例の第一液中に酸性媒染染料が用いられていることは、原告の認めるところである。)が認められ、また、同号証の「発明の詳細なる説明」の項中,「本発明に於ては第二液中のログウツドエキス、ピロガロールは鉄塩の鉄イオンにより通常数個の配位基を含む多核鉄錯塩色素を形成しおり、このものは共存する還元剤により長期安定に保存せられる。該液をさきに第一液にて処理せる毛髪繊維に塗布する時は先に染着したるアシツド・アリザリン・ブラウン又はアシツド・アリザリン・ブラツクは鉄塩と容易に錯塩を形成する故染料と鉄塩色素の組成の一部を交換し新しい色素を形成する。」(一頁右欄七行目から十六行目)及び「斯くの如くして得たる染毛料を使用するには先ず第一液を刷毛にて毛髪に万辺なく塗布し約三十分後第二液を他の刷毛にて同様に塗布し凡そ三十分後水洗する。」(二頁左欄八行目から十一行目)との各記載に徴すれば、第二引用例の第一液に用いられる酸性媒染染料であるアシツド・アリザリン・ブラウン又はアシツド・アリザリン・ブラツクは、第二液中のログウツドエキス、ピロガロールと鉄塩との反応により形成した鉄塩色素の組成の一部と交換反応して、毛髪繊維に金属錯塩の新しい色素を染着するものであり、したがつて、第二引用例の第一液に用いられる酸性媒染染料は、第二液に用いられるログウツドエキス、ピロガールと鉄塩により形成した鉄塩色素の使用を予定し、さらに、これらを時間的間隔をおいて使用することにより初めて染毛目的を達成しうるものであることが認められるに対し、前掲甲第一号証の「発明の詳細なる説明」の項中、「B液中に混和するネオラン染料又はパラチンフアースト染料は一つ又は二つのスルフオン酸基を有するOー・Oダッシューヂオキシアゾ染料で一染料分子中にクロムが既に錯化合物として結合されたものでこのクロムが上記A液によつてーSーSー結合を切断されたシスチン型毛髪中のーSーと結合するものと推定され又同時にこのクロムと毛髪ケラチンの塩基性基(アミノ基)との間にも錯塩結合が形成され、このネオラン又はパラチンフアースト染料中のスルフオン酸基は毛髪中のアミノ基とも結合して強固に結合するものと考えられる。」(三頁六行目から十六行目)及び「クロムを分子中に有するネオラン染料又はパラチンフアースト染料はアルカリ性溶液中に於ても安定であり染毛の際A液が毛髪に作用して毛髪を膨潤軟化する間は分解されるようなことなく、膨潤還元されて反応し易くなつた毛髪と化学的結合を起すものであるからA液とB液とを混合した後、この混合物を一回塗布するのみで膨潤還元及び色素形成の二段の反応を連続的に進行させ染毛の目的を達することが出来る。」(四頁三行目から十二行目)との各記載よりすれば、本願発明のB液中に使用されるネオラン染料又はパラチンフアースト染料は、その染料分子中にクロムがすでに錯化合物として結合されており、これが毛髪に対する結合作用を及ぼし、他方、このクロムを分子中に有するネオラン染料又はパラチンフアースト染料はアルカリ性溶液中において安定性を有するという特性により、膨潤還元及び色素形成の二段の反応を連続的に同時に進行せしめることができ、これにより一回染を可能にしたものであることが認められる。
叙上のとおりであるから、本願発明のB液として使用されるネオラン染料又はパラチンフアースト染料と第二引用例の第一液に用いられる酸性媒染染料とは、その化学構造上差異があるばかりでなく、その染毛作用において有する効果にも顕著な差異を有するものというべく、このような特殊性状を有する含金属染料のネオラン染料又はパラチンフアースト染料をもつて、一般の酸性媒染染料と同質のものとした本件審決は、この点において判断を誤つたものであり、これを前提として、本願発明をもつて第一引用例及び第二引用例から容易に推考できる程度のものであるとの誤つた結論を導いたものといわざるをえない。
被告は、第二引用例には、「水溶性硫化物」と「アルカリ」により軟化膨潤した毛髪繊維内部に酸性媒染染料が深く浸透し、「毛髪と化学的に強く結合する」とある点からいつて、第二引用例が酸性媒染染料による染毛の事実を開示していることは明らかである旨主張するが、すでに説示したように、第二引用例の第一液に用いられる酸性媒染染料は、第二液に用いられるログウツドエキス、ピロガロールの使用を予定し、これにより初めて染毛目的を達成しうるものであり、それ自体独立して染毛の実用に供せられるものとは認めることができないから、被告のこの点についての主張は、採用しうべき限りではない。
(むすび)
三 叙上のとおりであるから、その主張の点に判断を誤つた違法のあることを理由に本件審決の取消を求める原告の本訴請求は、理由があるものということができる。よつて、これを認容する。
一 特許庁における手続の経緯
原告は、昭和三十三年十二月十八日、名称を「染毛剤」とする発明につき、特許出願をしたが、昭和三十六年二月十八日拒絶査定を受けたので、同年三月二十八日、これに対する抗告審判を請求し、昭和三六年抗告審判第七七九号事件として審理されたが、昭和三十七年十二月二十四日、「本件抗告審判の請求は、成り立たない。」旨の審決があり、その謄本は、昭和三十八年一月十四日原告に送達された。
二 本願発明の要旨
チオグリコール酸、チオコハク酸、チオ乳酸等及びそれらの誘導体からなるメルカプタンの一種又は混合水溶液に、無機アルカリ、有機アミン類及び酸素吸収剤を混合したA液とネオラン染料又はパラチンフアースト染料と酸性染料又は酸性媒染料とを混合溶液としたB液とよりなることを特徴とし、染毛に際してA液とB液とを混合して毛髪に塗布する染毛剤。
三 本件審決理由の要点
本願発明の要旨は、前項掲記のとおりと認められるところ、本願出願前国内に頒布された刊行物である昭和三二年特許出願公告第五、六〇〇号公報(以下「第一引用例」という。)には「チオグリコール酸、チオ乳酸、チオ酪酸等のメルカプタンの一種又は二種以上のアルカリ性水溶液を第一液とし、ログウツドエキス及びピロガロールに酢酸鉄、硫酸鉄の如き鉄塩と、葡萄糖、酸性亜硫酸曹達、チオ硫酸曹達の如き還元剤を添加溶解した水溶液を第二液とする染毛料」について記載され、また、本願出願前国内に頒布された刊行物である昭和三二年特許出願公告第五、五九九号公報(以下「第二引用例」という。)には、「苛性曹達、炭酸曹達、アムモニア等のアルカリと硫化カルシウム、硫化曹達等の水溶性硫化物の混合水溶液に亜硫酸曹達、チオ硫酸曹達等の還元剤と酸性媒染染料たるアシド・アリザリン・ブラウン又はアシド・アリザリン・ブラツクとを添加溶解した第一液と、ログウツドエキス及びピロガロールに硫酸鉄、酢酸鉄等の鉄塩と葡萄糖、酸性亜硫酸曹達、チオ硫酸曹達等の還元剤を添加溶解した第二液とよりなる染毛剤」について記載されているが、本願発明において使用するA液と、第一引用例において使用する第一液とは、いずれもメルカプタン類を主剤とするアルカリ性溶液であり、相違するものではないから、結局、本願発明と第一引用例とは、それぞれB液及び第二液として使用する染料の種類が相違することと、本願発明は染毛に際してA液とB液とを混合して一回の塗布を行うに対し、第一引用例では第一液を塗布した後、第二液を塗布する点で相違しているものと認められる。
そこで、本願発明と第一引用例との前記相違点について考察するに、本願発明において使用する染料(B液)は、ネオラン染料又はパラチンフアースト染料を主成分とするものであり、その作用効果は、この染料とA液との関係において生ずるものと認められる。したがつて、まず本願発明と第一引用例の染料と、これに対応するそれぞれA液及び第一液との関係についてみると、A液又は第一液、すなわち、メルカプタン類を主剤とするアルカリ性溶液が、毛髪を軟化膨潤させると同時に、毛髪組織のシスチン部のーSーSー結合を還元切断してシステイン型とし、これによつて染料を毛髪に浸透し易くするとともに、毛髪組織と染料とが化学的に結合して染毛されるものであるから、それぞれ、両液の及ぼす染毛作用は、本願発明と第一引用例記載のものとで格別相違するものとは認められない。
そして、本願発明において使用するネオラン染料又はパラチンフアースト染料は、酸性媒染染料に属するものとしてすでに知られているうえに、酸性媒染染料が、染毛剤として使用されることも第二引用例により公知であるところよりすれば、本願発明と第一引用例の染料の種類が相違するものの、その相互置換は容易に予想できることと認められる。さらに、本願発明が、A液とB液とを混合して一回の塗布を可能にしたものである点については、本願発明のB液を構成するネオラン染料又はパラチンフアースト染料がOーOダッシューヂオキシアゾ染料にクロムが錯化合物として結合しているもので、蛋白質繊維に対する親和性の頗る強い染料であることはすでに知られており、A液と混合しても化学的反応を起こさないことは、両液の化学組成よりして明らかであり、本願発明は、ことさらに反応を起こさないように処理を施すものではなく、A液と混合しても反応を起こさない染料を選定して使用したにすぎないものと認められるから、本願の発明においてA液とB液とを混合して一回の塗布を行うようにすることは任意にできるものと認める。したがつて、本願発明は、第一引用例及び第二引用例から当業者が容易に推考しうる程度のものであり、旧特許法(大正十年法律第九十六号)第一条に規定する特許要件を具備しないものである。
四 本件審決を取り消すべき事由
第一引用例及び第二引用例の記載内容が本件審決の認定のとおりであることは認めるが、本件審決は、第二引用例に開示された技術内容の認定を誤り、ひいて、本願発明との対比においてその判断を誤り、その結果、本願発明をもつて第一引用例及び第二引用例から容易に推考しうる程度のものとの誤つた判断をしたものであり、この点において違法として取り消されるべきものである。すなわち、
(一) 本件審決は、本願発明のB液として使用される含金属染料すなわちネオラン染料又はパラチンフアースト染料は、第二引用例の第一液に用いられる酸性媒染染料に属するとしているが、酸性媒染染料は、大部分アゾ染料に属し、サリチル酸残基を含むか、又はアゾ基のO・Oダッシュの位置に水酸基を含み、染色前又は染色後、重クロム酸カリウムの如き金属化合物を必ず媒染剤として用いるものであるに対し、含金属染料は、一個又は二個のスルフオン酸基を有し、金属として主にクロムを含むO・Oダッシュジオキシアゾ染料に属し、染料分子中にすでに金属を含むものであり、酸性媒染染料のように金属化合物による前処理や後処理を必要としないものであり、したがつて、本件審決が本願発明における含金属染料をもつて第二引用例における酸性媒染染料に属するとしたことは、誤りである。
(二) 本件審決は、酸性媒染染料が染毛剤として使用されることは第二引用例から公知であるとしているが、仮に含金属染料が酸性媒染染料に属するとしても、第二引用例における酸性媒染染料について、第二引用例の「発明の詳細なる説明」の項において「之等染料は酸性媒染染料であるからその酸性基により毛髪と化学的に強く結合する。」と記載されてはいるが、他の箇所には、「先に染着したるアシツド・アリザリン・ブラウン又はアシツド・アリザリン・ブラツクは鉄塩と容易に錯塩を形成する故染料と鉄塩色素の組成の一部を交換し新しい色素を形成する。」と記載されており、これは前段の記載にかかわらず、酸性媒染染料は、媒染剤すなわち鉄塩を必要とし、かつ、鉄塩の存在において初めて真の結果を表わすことを示しているものである。すなわち、ここに使用される酸性媒染染料は、多価フエノールと鉄塩とが形成する錯塩の色調を調整する目的で使用するのが本来の目的であり、毛髪を染める真の染料ではなく、したがつて、一回染を意識して使用されたものではない。これに対し、本願発明における含金属染料は、含有されるクロムが毛髪中のシステイン基及びアミノ基との間に強固な錯塩結合を形成するものであり、全く任意のあらゆる色調に染毛することができるのである。